熊野古道案内・本宮大社リンク集

本宮大社

熊野本宮大社

崇神天皇御時始(『扶桑略記』)・崇神天皇六十五年現給(『帝王編年記』『水鏡』)

熊野本宮の創祀は文献上上記の通りとなっておりますが、その内容は下記の様なあらましとなります。

崇神天皇六十五年に熊野連〔くまののむらじ・又くまののあたえ〕大斎原(旧社)において、大きな櫟(いちい)の木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、
「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」
との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっております。当地は神話の御代より熊野の国となっており、大化の改新(西暦六四五年)まで続きました。連(むらじ)とは大和朝廷時代に、主として神別(しんべつ)の諸氏が称した姓(かばね)で、臣(おみ)と並ぶ有力豪族が多い。神別諸氏とは天神地祇の子孫と称する氏のこと。
http://www2.ocn.ne.jp/~sanzan/NTTcontents/hongu/

熊野の観光名所/熊野本宮大社

古くは「熊野坐(くまのにます)神社」という名で呼ばれていました。熊野三山の中心で、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮です。

 34回と最多の熊野御幸を行った後白河上皇(1127〜1189)は、『源平盛衰記』によると、本宮へは34回訪れていますが、新宮と那智は15回。
 新宮と那智を略して本宮だけを詣でて熊野御幸を済ますこともしばしばあったことからも、本宮が熊野三山の中心であることがわかります。

 鳥居の前に立つと、まず、大きな八咫烏(やたがらす)の幟が目を引きます。
 八咫烏は熊野権現の使い。三本足の烏です。日本サッカー協会のシンボルマークでお馴染みですね。

http://www.mikumano.net/meguri/hongu.html

熊野本宮大社 - Wikipedia

現在の本殿には上四社(上記参照)の4柱が祀られている。中四社と下四社の神は旧社地である大斎原に小さな祠が建てられて祀られている。

現在は社殿は山の上にあるが、1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで、熊野川の中洲にあった。創建以来その中州にあったと思われ、明治の洪水が起こるまでは社殿が流される事態などにはならなかったのだが、明治以後、山林の伐採が急激に行なわれたため、山林の保水力が無くなり大規模な洪水を引き起こしたのだと考えられている。現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、大鳥居が建っている。なお、その時の大洪水で被災した上流の十津川村の一部の集落の人々が、村を捨てて移住した先が北海道の新十津川村である。

伝説によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、実際は正体ははっきりしない。 太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%A4%BE

熊野本宮大社例大祭

熊野本宮大社例大祭が、4月13日『湯登(ゆのぼり)神事』(県指定無形文化財)から始まりました。神職に続き修験者が法螺貝をふきながら続き、父親らに肩車された稚児、付き人などが列をなして進み、湯の峰温泉・大日山・月見丘神社を巡り神事を行うものです。
15日には『本殿祭』、神輿などの行列が神様を大斎原にお渡しする『御渡祭』、渡修験者による護摩焚き『採灯大護摩』。
様々な神事が奉納されたあと、餅まきも行われました。

今年の稚児は本宮町内から4名、新宮市から3名の1才〜3才、計7名の男児。
稚児がとってもかわいらしく、付き人も誇らしげでした。将来の思い出になりましたね。
とはいえ例大祭の稚児は大役、3日間お疲れ様でした。
健やかに成長してください。

http://www.hongu.jp/reitaisai/index.htm

熊野古道で本宮大社へ

熊野詣でのメインルート・熊野古道中辺路ルートを歩いてきて、一番最初に到達する熊野三山は、熊野本宮大社。長い道のりを経て、はじめて熊野本宮大社が見える「伏拝王子」は、その名の通り本宮大社を目にして伏し拝んだといわれます。
伏拝王子から本宮大社へ、熊野古道のクライマックスを体験してみませんか?

http://www.kumanogenki.com/osusume/hongu/index.html