熊野古道・鮎川王子詳細

鮎川王子

今に残る大塔宮伝説

熊野剱宮の由来
 建武の昔、人皇第九十六代後醍醐天皇が当時鎌倉幕府の執権北条氏が、陪臣のみでありながら、幕政を行い民百姓を苦しめるので、これを討伐せんものと、皇子二品法親王に命じ、紀伊路および十津川方面に義兵を募らんものと竹原八郎重国、平賀三郎国綱ら少数の侍臣を従え、熊野詣の山伏姿に変装され、元弘三年(一三三三)十月下旬、相賀王子に一夜を明かされたが、敵追撃を逸早く知られた宮は、道を東に転じ間道を下川越えにとられ、小川谷に姿を消されたが、空腹に堪えかね、二三の家来にて食を請われたが、この時既に、敵の手が回っていたので、如何ほど請うても一人として顧みるものはなかった。時あたかも十月亥の刻、粟餅を棚に並べながら勧め奉ることのできなかったことは情け無き限りである。後年になって大塔宮であらせられたことを知り、その不敬を悔い、以来この地は一切餅つきをせぬことになった。昭和七年に大塔六百年祭斎行されるに当たり、小川区民は六百個の粟餅を捧げ奉り、お詫びを申し上げてより餅つきは行っています。さて宮の一行は谷水に空腹を凌ぎながら、山谷を遡り水呑峠を越え、辛うじて水上(今の大塔)に着かれ、約三ヵ月後、元弘二年正月奥熊野に移られました。
 その後、時移り、足利尊氏によって宮が幽閉された時、従臣の平賀三郎らは勝って知ったこの地に身を隠し、宮から拝領の剣を霊代として小川の地に祀ったのが、熊野剱宮の由来だと言います。今は剱宮も住吉神社に合祀されています。


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 鮎川王子は村名が鮎河から愛賀に変わり、そして鮎川になりました。その度に王子名も変わってきました。
地名の由来は紀伊続風土記に「鮎川は合川の義にして、小名愛賀川の流れ、岩田川と合流するより起これり」がおそらく本当のところでしょう。