”熊野本宮大社”
現在の熊野本宮大社は一の鳥居から、158段の石段を上って参詣する。大注連縄がかかる神門をくぐると、重要文化財に指定されたヒノキ葺きの美しい社殿が横一列に並び、境内に敷き詰められた玉砂利や社殿背後の緑も清々しい。熊野本宮大社の主神は家津御子神(素盞鳴尊)
<由緒>
熊野詣での終着地として名高い熊野本宮大社。
速玉大社、那智大社とともに熊野三山を構成し、全国熊野信仰の総本宮
の位置をしめる。
崇仁天皇の御代に創建された神社で、現在の社殿は1889年の洪水の際
残った4殿を再建移築したもの。
社殿(国指定重要文化財)、源頼朝奉納の鉄製大湯釜(国指定重要文化財)などがある。
創始
崇神天皇御時始(『扶桑略記』)・崇神天皇六十五年現給(『帝王編年記』『水鏡』)
熊野本宮の創祀は文献上上記の通りとなっておりますが、その内容は下記の様なあらましとなります。
崇神天皇六十五年に熊野連〔くまののむらじ・又くまののあたえ〕大斎原(旧社)において、大きな櫟(いちい)の木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、
「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」
との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっております。当地は神話の御代より熊野の国となっており、大化の改新(西暦六四五年)まで続きました。連(むらじ)とは大和朝廷時代に、主として神別(しんべつ)の諸氏が称した姓(かばね)で、臣(おみ)と並ぶ有力豪族が多い。神別諸氏とは天神地祇の子孫と称する氏のこと。
(参考 熊野本宮大社ホームページ)
本宮の見所特集”大斎原”
熊野本宮大社の旧社地「大斎原」は、現在の本宮大社の正面大鳥居から東へ約500メートル、音無川と熊野川とに挟まれた約三万平方メートルの三角州である。清澄な水に浮かぶ巨大な「浮宝」(船)を思わせるこの神の島は、古くから「宇豆の原」「三津ヶ原」「浮島ヶ原」「巴ヶ淵」「中島」「新島」などとも称されてきた。
鎌倉時代の正安元年(1299)八月23日、一遍上人没後十年目の祥月命日にあたるこの記念すべき日、一族の編纂による「一遍上人絵伝」(一遍聖絵)が成立したが、それが大斎原の様子を伝える最古の記録となっている。それによると、南から流れる熊野川と西から合流する音無川の川内に、本宮の社殿が神門をしつらえた回廊で囲まれ、中央の渡廊によって東西に区切られている。西側には、長床と称する七間三面の礼殿があり、玉砂利を敷くその奥には、入り母屋造りの大きな本殿(両所権現)が一棟建ち、二柱の神が祀られている。 向かって左(西側)の第一殿に結宮、右の第二殿に速玉宮を祀る
東側には、左(西)から入母屋造りの第三殿 (証誠殿)、第四殿(若宮)と、まず上四社を巡って後、第五殿から、第八殿までの中四社、第九殿から第十二殿までの下四社をまわった。
しかしこの荘厳を極めた社殿も、明治二十二年(1889)八月十九日〜二十日の大洪水で上四社の社殿を残して、ことごとく倒壊した。実に熊野川の最高水位が八十メートルにも上がるという未曾有の水害であった。この時、神官らは、御神体を晒しの布に巻いて背負い、杉の大木によじ登ったり、船で逃れたりしてお守りしたという。翌々年の明治24年三月、下祓所のあった現在の丘上に社殿を移した。流失を免れた上四社の社殿を移築造営したが、本宮全体の建築物の規模は以前の八分の一に縮小したというから、もとの本宮がいかに気宇壮大の造りであったかを創造できるでしょう。
(参考 向陽書店 熊野古道V)
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